グイノ・ジェラール神父の説教  2012 B年



聖週間

復活節〜キリストの聖体





枝の主日
復活の祭日
復活節第2主日
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日

主の昇天の祭日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日



          受難の主日(枝の主日)    2012-4-1 B年    グイノ・ジェラ−ルッ神父

        イザヤ504-7  フィリピ2,611   マルコ15,139

    もう一度、イエスの受難を記念するために私たちはここに集まっています。 全人類の歴史は死刑の判決で満ちています。 毎日メディアは、憎しみや暴力や不正の犠牲者を私たちに見せます。 確かにイエスと同じ運命を受けた人は非常に多いです。 それなら、今日、なぜ世界中で人々がキリストの死を記念するのでしょうか。 その出来事から既に2000年も経ったのに。

 何世紀にもわたって神学者たちは、罪の贖いをテーマにして、キリストの受難の必要性を説明してきました。 教会の教父によると、アダムの罪からサタンがこの世の支配者になったそうです。 サタンの支配と死から私たちを引きはなして救うために、神はご自分の独り子の命を身代金として買い戻したと、教父たちは説明しています。 それに反して中世の神学者たちの説明は次のようです。 父なる神の怒りを和らげるため、また罪を償うために、私たちに代わってイエスは自分自身を生け贄として捧げたということです。 しかし、今日ではこのような説明は承諾できません。

 マルコは本当の理由を簡単に説明します。 自分が宣言する愛と赦しのメッセージのせいで、イエスは邪魔者となりました。 イエスは無理解と憎しみ、そして暴力をご自分の方に引き寄せてしまいました。 その結果、国の責任者と群衆は声を合わせて「十字架につけろ」と叫んで、キリストの死を願います。 初めから イエスはあらゆる権力と支配の形を拒みました。 柔和で謙遜なイエスは いつも犠牲者の味方になります。 自分の命を与える事でそれを証しします。 「誰も私から命を奪い取る事はできない。 私は自分からそれを与える。」(ヨハネ1017)自分の命を与える事でしか、イエスは悪の力に対する完全な勝利を得ません。 イエスの死は 神がどんな方であるかを表しています。 ある人々が考えているように 神は力強い方、私たちの不幸に無関心な方ではありません。 むしろ神は私たちのために死んでくださるお方です。 即ち私たちを愛しすぎるから 神は私たちのために死にました。 この死は愚かでつまずきになりますが、この死は神の愛がどれ程深いものかをはっきりと示します。

 神の無限の愛を考えると私は 非常に高価な香油の入った石膏の壷を壊して、イエスの足に塗った女性の事を思い出します。 これを見た弟子たちはショックを受け、無駄遣いでとんでもないことだと怒りました。 しかしイエスは、全世界の人が彼女のした事を思い出すだろうと答えます。 確かに彼女の動作は完全な愛の行いで、前もってご自分の死と葬りを預言しているとイエスは説明します。(ヨハネ127、マタイ2613) 結局この女性の愛の行いは キリストご自身が十字架上で実現する完全な愛をあらかじめ示しているのです。

 犠牲者の味方となるイエスは、全人類や人々の心の中にとぐろを巻いている暴力から私たちを解放します。 私たちが考えているように 神は暴力、恨み、戦争、不正の世界から遠くに離れていません。 また、私たちが神に与えようとしている役割、つまり正義の味方、復讐者、平和の味方の役目を神は拒んでいます。 御託身の神秘によって神は犠牲者の味方になる事をはっきり示しました。 ナザレのイエスにおいて、神はご自分の内に全人類の苦しみと全ての屈辱を集めました。 キリストは神ご自身です。 この神はいつも辱められ、冒涜され、見捨てられています。 そこで受難によって歪められた神の顔は、鏡のように人間の顔を映しています。 ミサに与る度に、私たちがキリストの受難と死を記念する理由は、イエスの命によって救われた私たちが、今後キリストの栄光の顔を、鏡のように映さなければならいないからです。

 福音史家の中でマルコは特に、受難の時イエスが孤独であった事を私たちに注目させます。 受難の時、神でさえ無言になります。 なぜなら、人間はどうしてもキリストを殺したいと言う強い意思によって、ある意味で神の全能を全滅させたからです。 確かに神は、人間が自由に選んだ死刑判決と憎しみの計画に従います。 神は愛だからこそ、他の方法を選ぶ事が出来ません。 神は「この上なく私たちを愛し抜かれた」とヨハネは宣言します。(ヨハネ131) キリストの受難と死を記念することで 私たちは次の事実を宣言します。 即ち、最も深い絶望の中にあっても、最も孤独の中に置かれても、人は絶対に一人ではないということです。 世の終わりまで、神は私たちの全ての試練を共に担っておられます。 そして、私たちの死の時が来れば、神は愛でご自分の命を完全に与えるために、また私たちのすぐ傍におられるでしょう。 この良い知らせを大勢の人々に伝えなければ、私たちの信仰が無意味だとよく納得しましょう。
アーメン。



           復活の主日 B年   201248日   グイノ・ジェラール神父

       使徒10,34,3743  コロサイ3,14  ヨハネ20,19

   復活祭の聖なる夜が過ぎました。 今朝、私たちは全教会と共に神の力ある業、つまり、私たちを死から救う神の愛の力を祝っています。 ところで、私たちはこの特別な日を 他の日と同じように生きようと思っているでしょうか。 「キリストは復活された。」 これこそ私たち個人と世界の歴史の最も大切な出来事です。 復活の出来事は 確かに毎日人生に染み込んで、人々の生き方に値打ちを与え、それを新たにするためです。

    復活の知らせを聞いた私たちは、マリア・マグダレナと弟子たちと同じように動転しているでしょうか? きっと、この復活の光を受けるために、またこの光によって変化させられるために、私たちには時間が必要です。 ゆっくりと灯っている復活のローソクは それを具体的に表しています。 また、この復活のローソクは 復活されたキリストの光がずっと私たちの暗闇を照らしている事も示しています。 全ての人が神の栄光の中に入ることが出来るように この光が私たちの住んでいる世界を益々照らす事を思って、私たちは 喜びと信仰を持ってこのことを宣言します。

    マリア・マグダレナは罪が赦された、愛する婦人です。 彼女の心はイエスと強くつながっているのです。 キリストは彼女の主であります。 普通、婦人たちは生まれる人のそばに、また 死にかかっている人のそば近くにいるなど、付き添いの役割を持っています。 復活の朝の薄明かりと空っぽの墓の暗闇の中で、立ったままマリア・マグダレナは泣いています。 「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。」(ヨハネ20,13)と悲しみで狂ったようにマリア・マグダレナは叫んでいます。 このマリア・マグダレナは イエスを深く愛する教会の象徴です。 また、泣いているマリア・マグダレナは イエスを探しているのに見つけられないし、あるいは、キリストの不在のせいで苦しんでいる全てのキリスト者を示しています。 キリストの現存を感じることなく、キリストを見ずに、聞き、触ることの出来ない私たちは 一体苦しんでいるでしょうか?

   ヨハネもイエスを深く愛しています。 彼は泣かずに、イエスの墓が空っぽである事を認めます。 特にヨハネは イエスの葬儀のために使われた亜麻布が、乱れた状態ではなく平和を表わそうとする方法で、丁寧に畳まれていることに気が付きました。 そこでヨハネは自分のうちに偉大な希望が溢れるのを感じ、そして見て信じるようになります。 ヨハネのうちで、自分が見ているものと、イエスが受難の前に預言した言葉があっという間に結び付きました。 従って、ヨハネは 信仰のうちに世界の全ての出来事を、キリストの言葉で照らしながら自分の信仰を考え直す、教会の象徴です。 同時にヨハネは 自分の日常生活の中で神の過ぎ越しの小さな印を発見するキリスト者をも示しています。 私たちはこの人々に属しているでしょうか?

    私たちの信仰生活は 空っぽの墓についての証しと復活の確実さの証しに基づいているのです。 そこでパウロは 教会の信仰をこのように宣言します。 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れる時、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3,34) キリストと共に 私たちの内に罪と死の印を受けている古い人が死にました。 私たちの愛徳、犠牲、悪への傾きを放棄する全ての種が、良い種として土に蒔かれてキリストと共に死にました。 この全ての種が 神に栄光を与える豊かな収穫となるために死にました。 キリストと共に死ぬ事は、持っている物事を惜しみなく無償で与えることです。 このように与えられた私たちの人生は、キリストが栄光の内に現れる日まで、キリストと共に神のうちに隠されているのです。

   キリストの復活はそれを約束します。 私たちはそれを信じて 今日一緒に祝っているのです。 キリストは生きておられます。 そして私たちは彼によって生きています。 「キリストが復活しなかったのなら私たちの信仰は無駄です。…この世の生活でキリストに望みをかけて生きているだけだとすれば、私たちは全ての人の中で最も惨めな者です。」(1コリント15,1419)とパウロは書きました。

    死者の葬儀ミサの奉献文が、命は死によって滅ぼされるのではなく、新たにされると宣言します。 勿論、日ごとに、私たちは自然に衰えていきます。 しかし毎日イエスは、ご自分に委ねられた人の命を変容します。 キリストの復活は私たちが神の聖性と愛のうちに成長するために、聖霊の創造的な力を与えます。 ですから私たちが皆、生きる者となるために 私たちのために死んで復活した神に 絶えず感謝する心を捧げましょう。 アーメン。



            復活節第2主日B年   2012415    グイノ・ジェラール神父

           使徒言行録4,2-35 Tヨハネ5,7-6 ヨハネ20,19-31

   この復活節の間に個人として、信仰を持ちそれを証しするように教会は、すべてのキリスト者に求めています。 今日、昔のように共同体の伝統によって、あるいは信仰深い熱心な家族によって 自分を支える事はもはや無理です。 今日、すべてのキリスト者は、個人的に教会の信仰を宣言しなければなりません。 同時にその信仰を養い成長するために適当な方法を捜さなければなりません。 この目的で聖ヨハネは、トマスと彼の仲間たちについての話を書きました。 「これらのことが書かれたのは私たちがイエスは神の子であると信じる為だ」と説明しています。

   先ず、福音史家ヨハネは復活の朝、復活されたキリストを信じたのは、自分が最初でしたと語ります。 つまり、婦人達の知らせによると、墓が空だったと聞いた途端、ペトロとヨハネはその墓まで走ります。 彼らは同じ事を見ます。 一方ペトロは墓の様子を見てイエスの復活を信じません。 他方、ヨハネは墓の様子を見ただけですぐ信じました。 しかしヨハネは「復活する」という事の意味をまだ悟っていませんでした。 自分の話を書き続けるヨハネによると、復活の夜にすべての弟子達がイエスを見、又触れた事を教えています。 確かに弟子達の前で現れたのは幽霊ではなく、むしろ受難の傷を見せようとし立っているイエスご自身でした。 弟子達はイエスが復活した事を認めざるを得ませんでした。 一体これは信仰と呼ぶのにふさわしいでしょうか?

   弟子達は声をそろえて、トマスに「私達は主を見ました」と自信を持って伝えます。 勿論トマスもそれを見ようと具体的な証拠を要求します。 残念ながら信仰は証拠の上に成り立つものではありません。 むしろ愛に生かされた完全な信頼の内で生まれます。 証拠を要求する人は、自分の内に愛をさえぎる疑いを持っています。 というのは愛する人たちの忠実さは お互いの信頼のうちにあるからです。 この信頼はある日言われた「あなたを愛しています」という言葉を土台としています。 この言葉は二人の間で絶えず繰り返されているのです。 この言葉は互いを愛する人々に責任を与え、そして証拠を望まない盲目的な信頼を彼らの心に与えるのです。 信仰はこのようなものです。

   私たちも神の愛という信頼の中に留まるために「キリストが復活された」という命と真理の言葉を 絶えず互いに繰り返します。 信じるには人の証ししかありません。 イエスが復活されたという事を証しする為に、迫害され、亡くなった人々のお蔭で私たちは今日信じることができます。 信仰という恵みは いつも人の言葉と証しによってしか与えられていません。 私たちの両親、友人、教理の先生方が 私たちに自分たちの信仰の何かを伝えました。 彼らは何も新しいものを加えずに、ただ自分たちが昔受けたものを そのまま忠実に伝えたからです。 彼らの証しを受けた私たちは何も見ずに信じています。

   復活されたキリストにおける私たちの信仰を伝えるために、私たちは初代教会の信徒のように行う必要があります。 「信徒達は使徒の教えに熱心でありました。」(使徒2,42)復活されたイエスを見た使徒たちとキリスト者たちは、自分の周りにこれを証ししました。 時が過ぎてから、彼らはこの証しを書き記しました、私たちにそれを残し伝えるために。 私たちは毎日曜日、その証しで自分を養っています。 何故なら、教会の中での神の言葉の朗読なしには信仰を育て強める事は到底無理です。 そういう訳で初代教会の信徒達と同じように、私たちも教会の教えに熱心にならなければなりません。

   初代教会のキリスト者は又祈りとパンを裂くこと、即ちミサ祭儀に熱心でありました。 私たちにとって一体どうでしょうか? 共同体的な分かち合いと、取り成しの雰囲気の内に又聖体拝領によって、キリストと一致することで信仰が強められます。 一体私たちの共同体は、キリストが私たちの間に生きておられる事を充分証ししているでしょうか? もし私たちが キリストが一緒におられる事を信じ宣言するなら、それは見える形で示さなければなりません。 私たちを囲んでいる人達が私たちを見て、初代教会の信者について云われたことを 私たちについても云えるはずです。 「ごらんなさい、彼らはどれ程互いに愛しているかを」と。 私たちのお互いの愛だけが キリストが真に復活された唯一の証拠です。 確かに受難に入る前にその目的の為にイエスは祈りました。 「父よ、すべての人を一つにしてください・・・・世が信じるようになる為です。」(ヨハネ17,21) アーメン。



         復活節第3主日 B年  2012年4月22    グイノ・ジェラール神父

       使徒言行録3,13-19    1ヨハネ2,1-5   ルカ24,35-48

    復活について述べている物語は、生きておられるキリストと出会った初代教会の体験を伝えようとします。 イエスを見て このキリスト者達は、復活されたキリストの顔に 神ご自身の神秘を仰ぎ見ました。 復活されたキリストを見ながら 初代教会のキリスト者は、神の内に生きることを悟りました。

  新約聖書の証しによると、ご自分を信じた人々だけに イエスが現れるそうです。 パウロはダマスコへの道で、キリストの声を聞きましたが彼を見ませんでした。 しかしその時、いつかキリストを見ることができるように 信仰の賜物を受けました。 イエスの全ての出現は、イエスは生きている方として 私達にとても近いということを表わしています。 信じる人々にこの現存こそ 世の終わりまで続いています。 私たちは、今日 このイエスの現存のうちに集まっているのです。

  弟子たちの前で、キリストが現われる度に 彼らが疑っていることをルカはよく説明しています。 確かに弟子たちは、頂いている喜びと同じくらい 恐怖も抱いていました。 この恐怖から彼らを解放するために イエスは先ずご自分の平和を与えます。 出会う度に イエスは彼らに言います。「恐れることはない、まさしく私です」。 即ち、「あなた方が信じてきた人であり、約束したように 私は復活した体であなた達の間に来ました」と。 ご自分の弟子たちを安心させるために、イエスは彼らの前で一匹の魚を食べました。 その後、この魚は迫害されたキリスト者との お互いの目に見える同一化の印です。同時に 魚の印は、特にイエスが一緒に居る象徴となりました。 復活されたキリストと出会うことは、彼と共に食事をする招きです。 それによってイエスは、聖書を悟らせる知識を私達に与えます。
  
  キリストは、自分が命と真理の道であることを宣言しました。 実際に、道連れとして イエスは忠実に私たちの直ぐそばに歩いています。 彼の現存の徴(しるし)を見分ける為に、私たちは彼の言葉を聞く必要があります。 特に、この言葉を絶えず私たちを新たにするものとして、また 初めて聞く言葉として受けなければなりません。 聖書を開くたびに また聖書の箇所が朗読されるたびに、私たちが読んだり、聞いたりすることを悟らせる為に、イエスご自身が私たちの直ぐ傍に立っていることを良く知りましょう。 聖書を読むこと、そして聞くことは、イエスを見る可能性を作る一つの方法です。 ヨハネは、神の言葉が私たちを愛の完成まで導くと書きました(1ヨハネ2,5)。 確かに、神の言葉は 神と隣人に対して私たちの心を燃え上がらせることが出来ます。


  ご自分の復活の真理を弟子たちに証ししてから、イエスはこの良い知らせを全世界に告げ知らせる使命を 彼らに与えます。 この時から 復活されたキリストにおける自分達の信仰のゆえに、全てのキリスト者も 復活の証人とならなければなりません。 キリストに結ばれて 神の言葉を聞くことによって、また 聖体拝領によって、それを実現することが出来ます。 もし 証しするという恐れが私たちを麻痺させるとしても、イエスは必ずご自分の平和と聖霊の力を与えることを 私たちは知っているのです。

  初代教会のキリスト者と同じように、復活の出来事を前にして、私たちは神ご自身の神秘の前に置かれているのです。 私たちは、神を説明出来ませんが 自分たちが誰であるかを 自問出来ます。つまり、自分自身の神秘を 理解することによって、私たちは段々 神の神秘に入ることが出来るのです。 同じように、私たちは復活を全く説明出来ないにも関わらず この出来事が、私たちにとって どういう関係があるかを 知ることが出来ます。 たとえば、自分たちの体の復活の約束を どのように理解しているでしょうか? 復活への希望を どれほど持っているでしょうか? 私たちの体が復活すると信じることが、私たちの生き方を変えているでしょうか?

  私たちは、皆 復活の証人とされました。私たちは、一人ひとり聖霊の力の内に 個人として 日常生活の中で復活されたキリストの効果的な現存について 証しするはずです。 何故なら、キリストの死と復活の内で、全人類に対する神の愛が 完成されたことを宣言するのは、私たちの貴重な使命ですから。 アーメン。



           復活節第4主日  B年   2012429    グイノ・ジェラール神父

       使徒言行録4,8-12   1ヨハネ3,1-2  ヨハネ10,11-18

    昔、預言者エゼキエルは信じられない約束をイスラエルの民に宣言しました。 つまり神は ご自分の群れを世話するために、ご自身が牧者となると言う約束でした。 イエスは 神の子としての役割とその使命によってこの約束を実現しました。 初代教会のキリスト者は、肩に一匹の羊を担いでいる若い羊飼いを、殉教者が葬られていたカタコンベの壁に描く習慣がありました。 このようにして、迫害されたキリスト者は キリストにおける自分たちの揺るぎない信仰を宣言していました。 言い換えれば、狼の群れに殺されても、 良い牧者であるイエスが 永遠の牧場である本当の命の泉に、必ず自分たちを導き、死から救ってくださると 彼らは固く信じていました。

  イエスは本当の良い牧者です。 ご自分と弟子たちは愛の絆で結ばれているので、イエスは彼らのために自分の命を捧げるのです。 そのためにイエスはご自分について、私は良い牧者であり、真の牧者であると言えるのです。 全ての人の救いのために自分を捧げる事によって、イエスは自分の慈しみと真理について証ししています。 イエスは、ただ一人で、十字架に向かうでしょう。 彼を捕らえるために来た人々にイエスは次のように言いました。 「私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(ヨハネ18,8)と。 弟子たちは夜のうちに逃げ去りました。 確かに、イエスは一人でゴルゴタを目指すのです。

  復活の後、自分の弟子たちと出会ってもイエスは彼らに何一つのとがめも言いません。 むしろご自分の深い傷を見せながら、彼らにご自分の平和を与えられます。 良い牧者は必ず赦します。 何故なら赦しは良い牧者の揺るぎない愛の一つの証拠だからです。

  今日私たちは生きるために、多すぎるほどの手段や物事を持っていますから、新たな生きがいを見いだす事は難しいです。 生きる理由もなく、人生の目的なしで、どうして人々は落ち着かずに 走り回るのでしょうか? 目的を知っている案内人や良い牧者なしに 彼らは、どこへ行くのでしょうか? イエスから離れたキリスト者は あらゆる方向から来る誘惑や誘いによって途方に暮れた人となり、いつか 多数の支配するものの奴隷となるに違いありません。 今の時代の狼の群れとは、神から私たちを引き離すこのような誘いと誘惑ではないでしょうか?

  復活する事によってイエスは 父なる神からいただいた使命を実現し、また ご自分の新しい生き方に私たちを与らせました。 「私は命を捨てて再びそれを得る。それ故、父が私を愛しておられる事が明らかとなる。 誰かが私の命を奪うのではない。 私が自分でそれを捨てるのである。 私は命を捨てることができ、またそれを再び得ることができる。 私はこの命令を父から受けた。」(フランシスコ会訳ヨハネ10,17-18

  今日は召命の日です。 どのようにイエスが自分の使命を果たされたかを考えると同時に、自分達の個人の召命とその実践について考えたらどうでしょうか? 私たちは主のみ旨に従って 神が整えた道を歩みたいでしょうか? それとも 自分自身のわがままで、線引きをした道を歩き続けたいでしょうか? いつか、私たちの囲いの中にいる羊たちが 牧者になるように召されるでしょう。 ですから、呼ばれている羊たちが この牧者の重大な責任を承諾する勇気を持つように、私たちは 絶えず祈らなければなりません。 「良い牧者は羊の群れを憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩編23,2-3)神の命が私たちに与えられた理由は 一人ひとりが生きた水の泉となるためです。 それは、いつか他の人がその泉で 自分の渇きを癒すためです。 実際に、神の囲いの中にまだ入っていない羊たちが数多いので、彼らのために祈りましょう。 実を言えば、この羊たちは 自分の人生に意味を探し求める人であり、あるいは、洗礼を受けるのを迷っている人たちでもあり、更に、私たちの共同体と教会から離れてしまった人でもあります。

  キリストは良い牧者です。 ご自分の方へ全てを引き寄せて、それを父なる神に向かわせます。 神の喜びが私たちの心を満たすために イエスは自分の後に従うように願っています。 ご自分の平和のうちに 全ての民を集めるために 神は皆の協力や想像力を必要としています。 ですから、良い牧者であるイエスから離れないようにしましょう。 むしろ、度々イエスに 次のように繰り返しましょう。 「主よ、私たちは誰の所に行きましょうか。 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6,68)「主よ、あなたは道であり、真理であり、命です」(ヨハネ14,6)と。 アーメン。



      復活節第5主日 B年    201256日       グイノ・ジェラール神父

       使徒9,26-31  1ヨハネ3,18-24  ヨハネ15,1-8

    神と人間の間にある関係について、イエスは話す度に、成長と豊かさを思い起こす例え話を使います。このようにぶどう畑の例え話は 成長しながら豊かな実を結ぶために 私たちが、すべてをキリストから受け取る必要があると教えています。 丁度、枝がつながっているぶどうの木から必要な生命力を引き出すように 私たちも、キリストから命をいただく必要があります。 しかし、この命とは一体何でしょうか?

   先ず、それは私たちが生れた時、いただいた命です。 しかし私たちの両親がその命を貴重な賜物として神から受けました。 ところがイエスは御自分の命を与えたいと説明する時、彼は全く違うものについて語っているのです。 なぜならキリストは、命そのものです。 実にイエスは「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10,10)と言いました。 命を豊かに受ける事は、人が予定よりも立派な人生を送ることや、また、人が長く生き続けることも 決して意味していません。 キリストは はっきりと命の深さと尊さについて述べているのです。 何故なら、イエスは私たちに神御自身の命を与えようとしますから。

   丁度ぶどうの幹から枝が樹液を取り出すように、キリストと一致している私たちは、イエスの内に命を汲み取ります。 それゆえに私たちは、度々キリストの御体と御血を糧として頂かねばなりません。 キリストの内にある命は、神と人間関係や分かち合いと交換に満ちた命です。 この事実を理解するために ぶどう畑の例え話は重大な助けとなります。

    御存じのように、ぶどうの木は、根、株、枝、葉と実で作られているのです。 互いに実現される交換によって、ぶどうの木の様々な部分は 全体を支え合いながら強く育てます。 先ず,ぶどうの株は持っている根を通して、自分に必要とするものを吸い込み、それを枝に引き渡します。 株から樹液を吸い取ることで 枝はのびのびと成長し、そしてゆっくりと豊かなぶどうの実を結ぶようになります。 最後に、枝の葉とぶどうの実が、太陽の効果と雨の恵みを株にもたらします。 ぶどうの木の例え話は 御自分につながっている人々と どのようにキリストが 御自分の神的な命の交換を実現するかを少しでも理解させるでしょう。 実際に、神が 私たちの人間性に与かり、私たちは神の神性に与かります。 神学者たちは、神の命の交換を「聖寵」即ち聖とする恵みと名付けました。 そこで、キリスト者たちは一緒に信仰を宣言し、互いのために祈り合い、更に助け合う時に、彼らは自分たち互いを互いに強め合う事になります。 神学者たちはこの霊的な交換を「「聖徒の交わり」と呼びます。

   ぶどう畑と私たちを比較する可能性はここで終わりになります。 何故ならぶどうの木の枝は 勝手に株から離れる事が出来ませんが、 かえって私たちは キリストから自由に離れる事が出来るからです。 望むなら私たちは キリストとつながるか あるいは、キリストとの関係を切るかは 自由です。 そのためにキリストは 今日の話の中で、御自分の内に留まるように8回繰り返して、忠告しています。 キリストの愛に留まることこそ、永遠に残る実を結ぶ確信と保証です。(ヨハネ15,16

   ところがこれについて考えると、一体、他の宗教に属している人々や、キリストを全く信じない人々にとって どうなるのでしょう? まさか、これらの人たちは、救われずに、豊な実を結べないのでしょうか? 勿論、そうではありません。 使徒パウロが教えているように、キリストは すべてのものが造られる前に生まれました。 万物はキリストによって、キリストのために造られました。(コロサイ人への手紙1,15-16) ですから、至る所で、すべてにおいて、神の豊かな現存を見つける事が出来ます。 確かにイエスはすべての人の救いの為、御自分の命を捧げました。 従ってすべての人が 救いの泉から豊かに汲む事が自由に出来ます。

   豊かに与えられる神の命は 私たちをキリストのように、キリストと共に、キリストの内に生かすのです。 神の内に生きる事は 永遠に残る実を結ぶ確信を私たちに与えます。 実を結ぶ事は肝心です。 何故なら、不毛の状態は 死に等しいものだからです。 そこで私たちが次のことを絶対に覚えましょう。 私たちが持っている豊かさは、自分たちから出て来るものではなく、むしろ神から与えられた無償のものです。 キリストが御自分の命を捨てたのは、私たちにそれを与えるためです。 そういう訳で、キリスト以外には 豊かさがありません。 キリストこそが 神の豊かさです。

  今日、神のぶどう畑は世界に広がっている教会です。 教会というのは、復活されたキリストと彼と親密に結ばれて、互いに一致させている私たちです。 ですから 互いの奉仕のために 神からいただいた自分たちの賜物を上手に使いましょう。 そしてキリストとしっかりと結び合いながら、信仰における兄弟、姉妹の絆を強くしましょう。 私たちの共同体の欠点にも関わらず、この共同体に流れてくる樹液で 絶えず、自分たちを養う賢明さを持ちましょう。 この樹液とは、私たちの共同体を養い、聖とする復活されたキリスト自身の命ですから。 アーメン。



           復活節第6主日    2012-5-13  B   グイノ・ジェラール神父

      使徒10,25-2634-3544-48  1ヨハネ4,7-10  ヨハネ15,9-17

    もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたたがたに知らせたからである。」 こう言いながら イエスは、ご自分と父なる神に一致させる命の充満の交わりに 私たちを入らせます。 その為に キリストの愛のうちに留まることは、必要不可欠です。 唯一の愛の神秘の内に、私たちはキリストによって 父なる神とお互いに結ばれあっているのです。

  「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と、イエスは言いました。 正直に次のことを認めましょう。 神が死ぬほど私たちを愛しているということを知っても、私たちは殆んど感動しません。 神の盲目の愛に直面しても、私たちは呆然と反応せずに無抵抗になります。 せっかく聖霊が私たちに生命力と神の聖性を与えようと望んでいるのに。 神が私たちを愛していることを知ることが、周囲にこの無限の愛を告げ知らせる為の動機になりません。 いくら私たちに対するキリストの愛を固く信じても、やはり自分自身をキリストの友として認め難いです。 もっと悪いことは、色々な日常生活の気苦労に気を取られて キリストの愛の内に全く留まっていないことを分かっても 私達はそのことに苦しみません。

  しかし、私たちの望み、希望、信仰、愛徳と計画が日ごとにキリストの愛によって強められるのは、どうしても肝心なことです。 イエスは永遠に残る実を結ばせる 湧き溢れる生きた水の泉です。 「わたしがあなたがたを選んだのは、あなたがたが実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15,16)と、イエスは言いました。 今日、私たちは自分の人生の中で 神の愛にどんな場所を与えるかについて 自問しなければなりません。 日常生活の試練を耐え忍ぶことが難しくなった理由は、きっと私たちに対する神の愛を気に留めていないからです。

   そういう訳で、神がどれほど私たちを愛しているかを理解する恵みを 直ぐにイエスに願いましょう。 イエスが与えようとする友情は、ほんの少しの人々や聖人のような人のためだけではなく、全ての人のためです。 またキリストの友情は、感情的な思いやりの問題ではありません。 イエスは全ての人のために、ご自分の命を捧げたから 全ての人はキリストの友となるように召されているのです。 しかし、キリストの友情は、責任を与えるものです。 つまりイエスは忠実であること、掟を守ること、そして特に自分の命を捨てることを はっきりと私達に要求します(ヨハネ15,10-12)。 確かにイエスの友になることは、自分自身の責任を果たす義務を与えます。 この責任は、婚姻上の責任であり、家庭的、社会的、宗教的な責任です。

  生涯に渡ってイエスは、父なる神の愛を知らせ、私たちがその愛に留まることを目的にしていたのです。 この愛に留まることによって、私たちは日常生活のために必要な光を受けています。 私たちに与えられているキリストの友情が、限りのない値打ちを与え、そして、罪、死、悪のあらゆる姿を破壊します。 キリストの友情は、また 永遠の喜びの泉であります。 愛するためには、私たちは無償で理由なしに 神から永遠に愛されていることに 気付くことです。 ところで、キリストの友情が次の3つの質問に答えることを強制します。

  先ず、度々互いの間に起こる様々な問題にも関わらず、私たちは他の人々を自分の兄弟として受け止めることが出来るでしょうか? 第2の質問、自分を他の人と比較せずに、彼らよりも自分が偉いか劣っているかを思わずに、偏見なしに、ありのままに他の人びとを受け止めることが出来るでしょうか?

  キリストの友であることは、キリストのように愛することです。 そして、キリストと共に彼が耐え忍んだ不正と軽蔑を背負って生き続けることです。「不当な苦しみを受けても、それを耐え忍ぶことは 神の恵みです善いことを行い、しかも苦しみを受けて耐え忍ぶなら、神のみ心にかないます。」(1ペトロ2,19-20) そういう訳で、自分の愛の質を確かめるために この最後の質問はとても大切です。 人が私たちを無視したり、避けたりする自由を持っていることを認めているでしょうか? 即ち、キリストのように私たちも理解されなかったり、反論されたり、そして不正に非難されたりすることを落ち着いた気持ちで承諾することが出来るでしょうか? もし、先に申し上げた3つの質問に対する私たちの答えが「はい」であるなら、イエスは真(まこと)を持って次のようにあなた方に言うでしょう。 「わたしの喜びがあなたがたの内にありますように、あなたがたの喜びが満たされるためです。」 アーメン。



             聖霊降臨の主日 B年   2012527    グイノ・ジェラール神父

      使徒2,1-11  ガラテヤ5,16-25  ヨハネ15,26-2716,12-15

    亡くなる前日に、イエスはこのように父に祈っていました。 「父よ、世が信じるように、すべての人を一つにして下さい。」 聖パウロも、書かれたすべての手紙を通して、この極めて重要な面について主張しています。 このようにパウロは、コリント人に書きました。「皆さん。勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」(1コリント1,10)と。 同様に、エフェソ教会のキリスト者達に、次の事を勧めます。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4,3)と。 フィリピ教会の愛する皆さんに、聖パウロは次のことを更に願います。「あなた方に、キリストの呼びかけがあるから・・・同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(フィリピ2,1-2)。

  ご自分を、信じてきた使徒たちの一致のために、キリストが一生懸命祈った理由は、又パウロが 絶えずキリスト者の一致を執拗に話した理由は、キリスト者の一致は 当たり前のものではないからです。 聖霊降臨、即ち教会の誕生の日から今日に至るまで、キリストが望んでいる一致を、実現する事や強固にする事は、愛の完成にたどり着くための私たちに残っている重大な務めです。 聖霊が私たちの内に、そして共同体の中で聖霊が働くように、神にたえず願う必要があります。 キリスト者の間にある分裂は、いつも福音宣教を妨げているし、皆にとっては苦しみの泉です。

  使徒言行録の話は、聖霊について、とても大切なことを教えています。 人々の多様性にも関わらず、聖霊は、皆を一致させました。 確かに聖霊によって、自分の内に閉じこもっていた弟子達は、あっという間に、数え切れない人々の前に証しする事が出来ました。 種族、文明と言葉の違いを超えて、弟子達はキリストのメッセージを伝えました。 聖霊のお陰で、弟子達は、皆が、理解できる宇宙万物的な愛の言葉を語りました。 また、聖霊のお陰で、皆同じ信仰の中に一致しました。 これこそ教会の誕生です。 一人ひとりは、ありのままに残っているし、同時に他人の多様性を尊重しながら、聖霊によって、一緒に一致を目指しているのです。 確かに一致の方へ歩む事が肝心です。 何故なら、一致というものはたえず創り上げるものですから。 そういう訳で、聖パウロが手紙を通して、一致する事を強く願っています。

  子供が幼い時から、他人特に両親に反抗する事によって、自分の性格と相違を表そうとしています。 子供が両親に「いやだ!」とか「いいえ!」と答えるのは普通です。 しかし成長しながら、反抗するだけで子供が自分の性格を表わそうとしたら、これは重大な問題です。 というのは大勢の大人は、他人をありのままに受け止める事が出来ないから、すぐ何に対しても反抗し、結局彼らはずっと子供っぽい、小児的な態度しか示さないでしょう。 大人になるために、どうしても他人を理解する必要があります。 他人を理解する事は、同じ考え、同じ感情、同じ計画を持つことではありません。 他人を理解する事は、他人の違いを尊重しながら、自分自身のありのままを保つ事です。

 「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5,22)信仰、謙遜を通して 聖霊は私たちの生き方を変えます。 他人の話に耳を傾けることや、他人の考え方を理解することや、親切な心、思いやりの心を育てることが出来るように 聖霊が私たちを助けます。 親切である事は、他人の幸せを望むことだけではなく、他人の内にある美しいもの、正しいもの、良い事を見つけることです。 この面で聖霊は 私たちの内に他人に対する思いやりの心をきちんと育てます。 しかし、この貴重な恵みは祈り、教会の秘蹟、マリア様の執り成しによって支えられる必要があります。

  使徒パウロは、キリスト者の共同体を人間の体と比較しました。 「体の一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(1コリント12,26)とパウロは書きました。 聖霊降臨の美しい祝日にあたって、神が、私たちに望まれる一致の方へ、聖霊と共に喜びの内に歩みましょう。 そうして聖霊の交わりの中で、全教会を強めるキリストの体の必要な部分となりましょう。 アーメン。




          主の昇天B年    2012520  グイノ・ジェラール神父

           使徒言行録1,1-11 エフェソ4,1-13 マルコ16,15-20

    信仰宣言をする時、私たちは次のように言います。 イエスは「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着きました。」 しかしイエスは、実際に何処におられるのでしょうか? イエスは至るところにおられ、「ここ」または「あそこに」おられるとか、おられないとか決めることは全く出来ません。 復活されたイエスは 神ご自身と同様に場所を突き止めることができないので 答えは難しいです。

  これに対して、旧約聖書は度々神のおられる決定的な場所を設定しようとしました。 例えば、神は天の高いところに、ご自分の民の間に、あるいはエルサレムのご自分の神殿におられると聖書は説明しました。 これについてイエスは 神の真の住まいは自分自身だと主張します。 なぜならイエス自身が神の神殿ですから。 神が イエスのうちに留まるように、イエスも 神のうちに留まります。 イエスはこの説明をしながら、自分を信じる全ての人は皆、彼ら自身も神の住まいとなると結論します。 私たちの体は神の神殿です。 なぜなら、信仰によってキリストに結ばれた私たちは、キリストの体である教会となったからです(コロサイ1,24)。 このように、神が私たちのうちにおられ、私たちも神のうちにいます。

  従って神を見つけるために、もはや天を見上げる必要はありません。 むしろ信仰を持って兄弟姉妹を見つめる必要があります。 確かにイエスが実際におられるところに、彼を探さなければなりません、つまり私たち自身のうちに、そして私たちを囲んでいる人たちのうちに。 エフェソの手紙を通して使徒パウロもまた、キリストの体を築きながら、「神の子を深く知ることによって、一つになり成熟した大人、すなわちキリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈にまで達するようになるのです。」(エフェソ4,13-14フランシスコ会訳)と言っています。

  イエスは天に昇り、神の右に座っていることを宣言することで、私たちはイエスの使命が最高の栄光の目的に達したと証しします。 そのわけは、イエスが全ての被造物の上にあげられたからです。 罪と死から解放された全ての人が イエスと共に命の道を自由に歩くことができるように、全ての権威が主の手に委ねられました。 キリストが天に昇られた理由は 彼の弟子たちが地の面に散らされて、全世界の果てまで、全ての人たちに与えられる神の命の証人となるためです。

  ですから私たちは主の昇天を キリストの不在、あるいはキリストが見えなくなったと考えてはいけません。 むしろ主の昇天は 最も親密な現存、つまり教会と私たち一人ひとりに対するキリストの極めて力強い、ダイナミックな現存の確実さを示すといえます。 マルコが キリストは神の右に座していると同時に、救いの福音を宣べ伝える弟子たちのそばに働いていると書くのは その確実さを表すためです。 この不思議な現存の在り方は世の終わりまで続くでしょう。 使徒パウロはこの不思議な現存の終わりは「私たちがキリストの背丈いっぱいに達する時です」(エフェソ4,14)と証しします。

  キリストの死と復活のおかげで 私たちの存在の目的は、墓の暗闇の中で土に降るのではなく、終わりのない神の光のうちに昇天するのです。 主の昇天は イエスが地上で持っていた権威を 全てのキリスト者に与えました。 信じる人々は キリストのように病人を癒し、悪霊を追い出し、死がどんな形を借りていても死に完全に打ち勝つことができます。 と言うのは、復活されたイエスの信仰のおかげで聖霊ご自身の力が私たちのうちに働くからです。

  天に上げられたキリストは 自分の方へ全てを引き寄せます。 神の国を見るために私たちは上から生まれることが必要だとキリストは説明します(ヨハネ3,3)。 私たちは イエスが私たちと共にいることを知っていますし、また信じています。 しかし数え切れないほどの物や用事に引っ張られて、私たちは容易に自分のうちにおられるキリストの現存を忘れがちです。 この世で平和のうちに生きるために、私たちはどうしても上にあるものを探さなければなりません(コロサイ3,1)。 私たちが神に関するものごとにまでたどり着くように、聖霊が助け上げてくださるように祈りましょう。 それは、聖霊が絶えず私たちのことばと行いを導きますように。 最後に、神のうちに日常生活を生きる知恵を聖霊に願いましょう。 なぜなら、この生き方によってだけ、私たちは成熟した大人になり愛の完成にたどり着くことができるからです。 アーメン。



          三位一体の祝日 2012-6-3 B年  2012  グイノ・ジェラール神父

       申命記4,32-40      ローマ8,14-17    マタイ28,16-20

    14世紀から教会は三位一体の祭日を祝い始めました。 教会は、キリストの誕生と復活のようにイエスの生涯の出来事として三位一体の祭日を祝っていません。 むしろキリスト者達が信じているドグマ、つまり、信仰を示す表現を祝っています。 このドグマが4世紀の時に完成されました。 ユダヤ教が宣言する唯一の神への信仰を別な風に宣言する為に初代教会の人々は、聖書に基づいて、勇気を持って、神の神秘を表わそうとしました。 それにも拘わらずイスラム教の人々は、キリスト者が3つの神を拝んでいると強く非難しています。 しかし、私たちは唯一の神を信じ この神は父と子と聖霊です。

  神について話すと、どうしてもイメージを使わなければなりません。 三位一体とは、唯一なる神の3つのペルソナです。 私たちが使っているペルソナという言葉は、ラテン語よりも古いエトルリア人の言葉であり、その意味は劇の面です。 ご存知のように能の面の目的は、それをかぶる人を隠すことではありません。むしろ、俳優によって演じている人の性格と役割をはっきりと示すためです。 このように三位一体の3つのペルソナは、唯一の神の神秘を啓示しながら同時に私たちに憐れみ深い神の姿を示すのです。

  私たちの神は父であり、全ての命の泉です。 神はまた子です。 その子は、私たちに対する御父の無限の愛を啓示します。 神はまた霊であり、神ご自身の命と愛に私たちを与らせます。 このように言っても、その説明は非常に欠けています。よく知っている人について 正しく何も変形せずに語ることは とても難しいことです、まして神とその神秘性を説明するのは 到底無理です。

  今朝 聞いた申命記の教えは、神がご自分の民と結ぼうとした唯一の関係について述べていました。具体的な契約を通して、神はご自分の神的なエネルギーをイスラエルの民の世話の為に尽くそうとします。 神がご自分の民と結んだつながりは、私たちが神と結びたいつながりの由来と模範とならなければなりません。 神を知りたい人は、まず神の言葉とその業を受け止め、それによって神が啓示するものに基づいて 自分の生き方を築くべきです。 生涯に渡ってキリストは、このように生きていました。 「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからですわたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのです。」(ヨハネ12,49-50)とイエスは断言します。

  言葉と行いによって、イエスは絶えず御父を表わそうとします。 「わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10,30)とイエスは言います。 イエスを理解するために私たちは、彼に耳を傾けて 彼の動作を見る必要があります。 なぜなら、「わたしを見る人は父を見る」とイエスはおっしゃったからです。 キリストに倣って生きることは、神はどんな方であるかを理解する可能性を与えます。 父である神の似姿に造られた私たちは、全てに於いてキリストをまねるのは とても大切なことです。

  父と子が私たちに与える聖霊は、神を啓示しながら 私たちの神秘をも表そうとします。イエスが教えたように「真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しするのです」(ヨハネ15,26)。 私たちが神と語るとき 聖霊は「父」とに言わせます。 また、聖霊は御子のことを悟らせながら、御父に対する子としての態度を私たちに与えます。 最後に聖霊は、三位一体の一致と私たちと神との一致をも啓示します。

  神が私たちに命を与えるのは、私たちが神のうちに、神の為に、神によって生きるためです。 キリストの後に歩むことで、私たちは 愛の完成と聖性へと導かれています。イエスは父の方へ私たちを導き、聖霊は私たちを聖化するために働いています。 人間としての私たちの召命とは、神と共に三位一体の神秘の中心に生きることです。 信仰によって私たちは、永遠に神と結ばれています。信仰によって聖とされた私たちは、責任のある、神の協力者として定められています。 ですから、神の聖性を表している生き方を自分の周りに示しましょう。 これこそ、神ご自身の唯一の願いです。 「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ記11,45)。
アーメン。



        キリストの聖体B年   2012年6月10日    グイノ・ジェラール神父

      出エジプト24,3-8  ヘブライ9,11-15  マルコ14,12-16 22-26

   聖書の中で食事の話が溢れています。アダムにそして洪水の後でノアに 神が言われた最初の言葉が、何を食べたらよいか、食べてはいけないか について述べています。 またレビ記は清い物と不潔な食べ物のリストを示しています。 聖書の他の話も食事中に与えられた もてなしの大切さについて書いています。 福音の話によるとイエスは度々 様々な人と一緒に食卓に座っています。 例えば青草に座ったままイエスは沢山の人々とピクニックをします。 また朝早く湖の岸辺で 弟子達と共に朝ごはんを食べます。 このように、イエスの数々のたとえ話とヨハネの黙示録も、全ての人々に開かれて 何も欠ける事のない宴会として神の国を表そうとしています。

  この全ての食事の中で、最も意味のあるのは 受難の前に行われた主の晩餐です。 この食事はミサと同じように典礼的な食事でした。 受難の歴史的な夜までは ユダヤ人たちは過去の出来事を祝っていました。 すなわちエジプトの奴隷の制度から イスラエルの民が解放されたことを祝っていました。 主の晩餐の日から キリスト者たちは未来を祝っています。 と言うのは、罪と死の支配から あらゆる時代の人々が解放されているでしょう。 確かに奴隷の制度の解放は、十字架の上で実現される 永遠の契約と完全な解放の前兆でした。

  別れの食事の時にイエスは父なる神に感謝をします。自分が捕らえられ、殴られ、辱められ、拷問され、殺されることを知っていたイエスは どうして神に感謝する事が出来たのでしょうか? イエスは父なる神ととても一致していたから、そしてまた全人類の運命と一致していたから、きっとイエスは 十字架の上で実現しようとしているご自分の使命のために、神に感謝することが出来たのでしょう。

  晩餐の時にキリストが行った事を 私たちは毎日曜日行っているのです。 いくら人が普通に「私はミサに行きます。」と言っても 実際に私たちは神に「ありがとう」と言うためにここに集まっているのです。 この感謝の祭儀を表す言葉が、様々あります。 初代教会の信者たちは「セナ. Cena」ラテン語で「夜の食事」を意味する言葉を使っていました。 迫害の終わりの頃には「ミサ.Missa」と言うラテン語は「宣教」を意味する言葉として利用され始めました。 しかしこの言葉は 主の晩餐を示すよりも食事の終わりを思い起こさせます。 なぜなら キリスト者は自分の住む場所で キリストの証し人として福音宣教を果たすために遣わされています。 確かにミサの最後の祝福によって、ミサの間に味わった事を日常生活の中で生かすように、キリスト者は派遣されていますから。 中世の時代から「ミサ」はラテン語で「サクリフィシオ. Sacrificio」つまり「聖なるいけにえ」と名付けられました。 第2バチカン公会議の時からギリシャ語の「エウカリスチア・eucharistia」つまり「感謝する」と言う意味の言葉が使われるようになりました。 それはイエスが受難を受ける前に神に感謝した事を思い起こさせるためです。

  一体 どうして私たちは 毎日曜日に神に「ありがとう」と言わなければならないのでしょうか。 自分の誕生の時に頂いた命のために、そしてイエスを通して神が私たちに与える 永遠の命のために、私たちは神に感謝します。 キリストに益々似ることが出来るように、イエスの体と御言葉を糧として 頂いている事を神に感謝します。 更に私たちの救いのために、神に御自分を捧げるキリストと共に、聖霊の交わりのうちに一つの心、一つの魂、一つの霊になることを感謝します。 私たちがここに集まっているのは、神に感謝するためです。 信仰の恵みと世界に広がっている教会と私たちの共同体の故に 私たちは感謝します。 そしてまた、私たちに与えてくださった全ての司祭のためにも、神に「ありがとう」と言いたいから、ここに集まって私たちは 絶えず神に賛美と感謝を捧げます。

   そう言う訳で、私たちは、決して、習慣的に聖体拝領をしてはいけないのです。 キリストの体を頂く事は キリストと一致することであり、キリストが人生で最も大切にされた事を、自分自身の日常生活の中に入れ替えるためです。 聖体拝領をする人は 平和、正義、和解と分かち合いのために働きながら、キリストのように自分の命を与えようと望む人です。 キリストの体を頂く事は 自分の信仰を宣言しながら世の救いを、心血を注いで願うことです。

  「主の食卓に招かれた者は幸いです。」 聖体の秘跡を通して神が私たちに与える貴重な賜物を受けながら、「ありがとう」と神に言える人は本当に幸いです。 私たちはこの人々の数に加えられるように、よろこびの内に心を尽くしてキリストの聖体の祭日に与り、神に賛美と感謝を捧げましょう。 アーメン。




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